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犬が去って豚がきた




以下コピペ
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/taiwan/1183776649/

23 :美麗島の名無桑:2007/07/11(水) 19:13:24
           

          二 二 八 事 件 記 念 碑 の 碑 文

1945年日本が敗戦して、投降した。この消息が伝わると、みなが喜びに沸きかえり、不公平で不義の植民統治から離脱できることを祝った。

しかし、思いも寄らないことに、台湾行政長官の陳儀は接収の重責を担っているにもかかわらず、民情に暗く、施政は極めて偏向し、台湾の民を軽蔑した。

さらに官吏の風紀は腐敗し、生産、販売は失調し、物価は暴騰し、失業は深刻となり、民衆の不満は沸騰点に達した。

1947年2月27日、専売局の人員が台北市延平北路において密売タバコ取り締まりを行った際、婦人の販売人を殴打し、

通行人を誤って殺害したことから、民衆の激憤を引き起こした。翌日、台北の群衆はデモ行進を行い、長官公署に犯人の処罰を請求に訪れた。

ところが、射撃にあい、数人の死者を出した。これより抗争の怒りの火は全面的に広がることになった。争いを解決し、

積もり積もった怨恨を取り除くため、各地の指導者は事件処理委員会を組織し、調停にあたるとともに、政治改革の要求を提出した。

しかし、思い寄らなかったことに、陳儀は愚鈍で強情で、一方で調停に応じると見せながら、一方で地方のリーダーたちを反徒とみなし、

南京に派兵を求めた。国民政府主席の蒋中正は報告を聞くと直ちに兵を台湾に派遣した。3月8日、21師団が師団長の劉雨卿の指揮の下で基隆に上陸した。

10日、全台湾に戒厳令が敷かれた。警備総司令部の参謀長の柯遠芬、基隆要塞司令史宏熹、高雄要塞司令の彭孟緝、および憲兵団長の張慕陶らは鎮圧の時、

罪のない人たちまで巻き添えにし、数ヶ月間、死者、行方不明は数万を数えた。

そのうち、基隆、台北、嘉義、高雄、が最も凄惨だった。この事件は二二八事件と称えている。

それから半世紀、台湾は長期的な戒厳令下にあって、朝野とも口を閉ざし、誰もこのタブーに触れようとしなかった。

しかし、屈服と鬱積は最後には発散されなければならない。省籍による反感と統一・独立の争いは特に苦しみであった。

1987年の戒厳令解除後、各界は病が重く、和解が難しいことを深く感じ、二二八事件の調査、研究、国家元首の謝罪、

受難者と遺族への補償、そして記念碑の建立を行った。社会の大きな傷を癒すためにはすべての国民がともに心を尽くすことが必要である。

碑文を刻むことには天にある死者の魂を慰め、受難者と遺族の悲憤を鎮めるとともに、これを鏡とするよう国民に警告を与えることが趣旨がある。

今後、敵味方を分かたず、一体となって、互いに助け合い、互いに誠実に、恨みをなくし、平和を永遠のものとしようではないか。

宝の島に天の恵みあれ、永遠に栄あれ。


                      財団法人二二八事件記念基金会
                      中華民国86(1997)年2月28日
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コメント
この記事へのコメント
  1. 名無しさん | 2009/06/16 15:40 | 
  2. 年始に228記念公園なんも知らんで行ってきたけど、人馴れしたリスやらスズメがそこらじゅうに居たり、大きな泉やらあってとても綺麗だなぁ~とか思ってたわ。不勉強でした

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